【はじめに】
この記事では、私の「Rxヒット指標」に基づき歌手/アーティストのヒット曲を振り返っていきます。今回取り上げるのは「松原操/ミス・コロムビア」さんです。
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 – 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。
松原操
本名は、1939年の歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)との結婚後に坂本操になっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Rxヒット指標にみるヒット曲3曲
まずは、Rxヒット指標にみるヒット曲上位3曲を見ていきましょう。日中戦争翌年に映画から大ヒットした『旅の夜風』が最大ヒットでミリオン相当を大きく上回る160万ptとなっています。
1位:160万pt(1938年)『旅の夜風』
- 「旅の夜風」(たびのよかぜ)は、1938年(昭和13年)9月10日に、「悲しき子守唄」とのカップリングでコロムビアレコードから発売された日本の歌謡曲。松竹映画「愛染かつら」の主題歌でもあり、当時としては驚異的である80万枚を超すヒットを記録した歌であった。
- 霧島とミス・コロムビアの名が全国的に広まるとともに、2人を結びつけるキッカケにもなった歌である。
全ての項目でダブルスコアぐらいを付けている『旅の夜風』は、日中戦争勃発の翌年、第二次世界大戦の前年にあたる1938年の大ヒット曲で、現代でもデュエットされるほどの人気曲です。
3位:80万pt(1939年)『父よあなたは強かった』
- 大阪朝日新聞、東京朝日新聞が、1938年(昭和13年)10月、「皇軍将士に感謝の歌」の懸賞募集をした。この募集の一等が、「父よあなたは強かった」で、佳作一席が「兵隊さんよありがとう」である。
戦時歌謡を多く歌唱した松原操(こちらのジャンルでは改姓前の本名名義)さんの中でも、当時の売上および戦後を含めたカバーアーティスト数でトップなのが、『父よあなたは強かった』です。内容的に戦後も歌いやすかった側面もあったと思われ、80万ptで3位タイとなっています。
3位:80万pt(1940年)『目ン無い千鳥』
- 『旅の夜風』のヒットで、《愛染コンビ》と呼ばれた霧島昇との共演が多くなり、『一杯のコーヒーから』『愛馬進軍歌』『愛染夜曲』が続けてヒット。ステージや巡業の機会が多くなったことから、3歳年下の霧島昇との関係が親密となっていった。
- 1940年(昭和15年)以降も、「結婚後は人気が落ちる」という通説を覆し、『目ン無い千鳥』『愛馬花嫁』などのヒットを続けるが、内務省からのカタカナ名前の芸名を禁じる指令の対象となり、ミス・コロムビアとしての活動に終止符を打ち、松原操として活躍を続けた。
戦後に大川栄策さんがヒットさせた『目ン無い千鳥』を戦中にヒットさせたのが、霧島昇・松原操夫婦でした。参考値ではありますが、わがヒット指標では彼女らの中で3位タイのヒットとなっています。
ちなみに、個人的にはTop3入りを果たせなかったものの、1939年にリリースされた『一杯のコーヒーから』が好きです。とても昭和10年代中盤とは思えないハイカラなメロディーとオシャレな歌詞には、強く惹かれるものがあり、ラジオで初めて聴いた時は、戦後の歌かと思ったほどです。
2位:90万pt(1948年)『三百六十五夜』
- 1946年(昭和21年)に創刊された娯楽読物雑誌『ロマンス』の3号、1946年8月号から小島政二郎の長編恋愛小説『三百六十五夜』が連載され、岩田専太郎の挿絵も相まって人気を呼び、連載終了と同時に1948年に映画化され、東京篇と大阪篇が制作された。
この映画と主題歌の人気は『ロマンス』の売り上げに拍車をかけ、1948年には発行部数82万部にまでなった。その後も映画・テレビドラマなどでリメークされている。
昭和10年代後半に入ると戦時歌謡の歌唱がほとんどとなった松原操さん。外国語での芸名での活動を止め、それ以降は「松原操」として戦後(1948年)まで活動しました。
戦後最大ヒットとなったのが、『旅の夜風』から10年にして得意の映画主題歌である『三百六十五夜』でした。
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