【はじめに】
皆さんこんにちはRxです。今日は芸能界で「(元祖)御三家」と呼ばれた橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦のお3方の代表曲を、私のヒット指標と共に振り返っていきたいと思います。
私のヒット指標に関しては、今後説明していきたいと思いますが、昭和のヒット曲で重要になってくるのは、「レコード売上(公称)」と「カバー回数(アーティスト数)」です。この2つをもとに、3名の歌手としての代表曲を考えていくことにしましょう。
もちろん、名前を聞いたことがあるかどうかという方も、ネット世代には多いかと思いますので、適宜補足を挟んでいきたいと思いますのでご安心ください!
橋幸夫(1943/05/03~)
まずは、橋幸夫さんです。3人の中では最もデビューが早く、昭和35年(1960年)です。
1943年5月3日、東京都荒川区に呉服屋の9人兄弟の末っ子として生まれた。ちなみに、「橋」という珍しい苗字は、先祖が代々滋賀県で神主を務めていたことに由来するという。学生時代は悪童でボクシングに熱中し、プロテストを勧められたこともあり、心配した母が遠藤実の歌謡教室に通わせたことが、歌の世界に入るきっかけとなった。
日本語版ウィキペディア > 橋幸夫
ひょんなことから歌手になった橋幸夫さんですが、デビューシングルがいきなり大ヒットとなります。『潮来笠』というタイトルの股旅物です。
現代の我々には馴染みが薄いジャンルですが、下にあるジャケットで橋さんが扮しておられる様な感じの歌詞・スタイルの楽曲です。こういったジャンルが昭和30年代当時は一大ジャンルの一つでした。
下の書籍にある内容を引用したウィキペディアの記述を参考にすると、どうやら橋さん最初『潮来笠』という曲名を『シオクルカサ』と読んでしまったんだそう。まあ私も子どもの頃、読めませんでした^^
大ヒットを示すエピソードとしては、正式デビューの前にテレビで歌ったら問い合わせの電話が殺到して、レコード発売を予定より1か月早めた上に、初回プレスは即日完売となったそうです。
結果的にはこの1960年の大ヒットとなり、同年末に行われた「第2回レコード大賞」では(当年デビューの年に「大賞」は挙げられないという運営サイドの意向もあってか)新設された初代・新人賞に輝く運びとなったんだそうです。
これを私のヒット指標に当てはめるとこんな感じになりました。
『潮来笠』のシングル売上は累計120万枚に達したそうです。デビュー曲でいきなりミリオンヒットというのは当時としては破格の大ヒットだったのではないかと想像できます。いわゆるテレビからバズったといった所でしょうか。平成の肌感覚でいう「ダブルミリオン」ぐらいのポテンシャルだったのではないかと想像しています。
翌年(1961年)には『潮来笠』というタイトルの映画が封切られたり、デビュー半年で5枚のシングルを出した前年を上回るシングル11枚リリース(今で言う「◯か月連続リリース」とかでなく自然体で)を達成。音楽ジャンルも様々ながら、その全てがヒットし、レーベル・ビクターから「年間ヒット賞」を次々に贈られるというブレイクを迎えます。
そして、デビュー3年目の橋幸夫さんは、今まで着流し姿だったところから学生服姿で歌って80万枚のヒットとした『江梨子』などで更に好調に。同年の秋に、いよいよ昭和30年代を代表するあのヒット曲とめぐり逢います。それが、
当時17歳だった吉永小百合さんとのデュエットソング『いつでも夢を』です。
詞・曲ともに明るい憧憬にあふれたこの楽曲は、第4回日本レコード大賞の大賞を受賞し、1962年を代表する楽曲となり、1960年代の高度成長期を象徴する楽曲となった。その後も長い間、日本国民に愛された楽曲として人気を保っている。長年にわたりラジオやテレビの各番組で流され、この楽曲へのリクエストも多い。そのため、発売当時はまだ生まれていなかった世代にもこの曲はよく知られている。
日本語版ウィキペディア > 『いつでも夢を』
同じくウィキペディアに引用されている文言によれば、
その特徴的な歌詞と、まだ舟木一夫や西郷輝彦などもデビューしておらず、橋が若き王者として人気を極め、吉永も若手女優として高い人気を誇っており、その二人の初デュエット曲として発売当初より話題となり、発売から「1ヶ月で30万枚という驚異的な記録をたて……半年すぎた翌年5月には100万枚を突破した」[3]。累計売上は260万枚を記録している[4][5]。
( 同上 )
とあります。全くもって場違いですが、1991年の『Oh! Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に』/小田和正がオリコン調べで約260万枚ですので、それに数字の単純比較では一致するような特大ヒットだった事が窺えます。同年末には「第4回レコード大賞」で(ついに)大賞を受賞しています。
『いつでも夢を』は、『潮来笠』をも遥かに上回るシングル売上とカバーアーティスト数を稼いで、橋さんにとっての時代を超えた代表曲となっています。累計335万ptというのは、滅多にお目にかかれないレベルで、1960年代みたいなスパンでの代表曲に数えて良い水準かと思います。
ちなみにこのカバーアーティストの中では、朝ドラ『あまちゃん』のラスト2週目のサブタイトルにも使われた『いつでも夢を』のカバーも含まれています。(※もう10年も前なんですね)
着実にスター歌手の階段をのぼった橋幸夫さんは、1960年代を通じてヒット曲をコンスタントに出し続け、1965年には「NHK紅白歌合戦」で、あの美空ひばりさんの『柔』を抑え、大トリを飾るという出世を極めたりもしました。
(1964年)『恋をするなら』
(1964年)『チェッ・チェッ・チェッ -涙にさよならを-』
(1965年)『あの娘と僕 -スイム・スイム・スイム-』
(1966年)『霧氷』
【日本レコード大賞「大賞」】
(1967年)『恋のメキシカン・ロック』
そして、オリコンチャートが発足して以降では、
(1969年)『京都・神戸・銀座』
(1971年)『子連れ狼』
【日本レコード大賞「大衆賞」】
といった感じです。『子連れ狼』は、小池一夫の同名作品とも連れてヒットしたので、橋さんの当時のヒットを知らない人でも、「♪しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん しとぴっちゃん」のフレーズは聞き馴染みがあるかも分かりませんね。
2021年10月4日、80歳誕生日の2023年5月3日をもって歌手活動から引退することを発表[17]。加齢による声帯の筋肉の衰えで「歌の馬力や声帯を維持することが難しくなったと実感し、それを隠したりごまかしたりするのは、自分の性格ではできない」と理由を説明した [18]。歌手活動引退後も芸能活動は継続する。
日本語版ウィキペディア > 橋幸夫
昨年(2021年)、橋幸夫さんが歌手活動を引退するという話題がニュースになっていました。そもそもデビューが1960年ということを考えると、60年以上歌手活動を続けて来られたということになります。それ自体が物凄いことだと改めて感じます。
舟木一夫(1944/12/12~)
2人目は「舟木一夫」さんです。日本語版ウィキペディアを引用すると、
舟木 一夫(ふなき かずお、本名:上田 成幸、1944年12月12日 – )は、日本の歌手、タレント。橋幸夫、西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれている。学生服と八重歯がトレードマークで、デビュー当時は、学園ソングとよばれる、高校生活をテーマにした歌が多かった。
日本語版ウィキペディア > 舟木一夫
ご本名じゃないんだー なんてことも含めて、端的にイメージを表現している説明文かと思います。
前述の橋幸夫さんの対抗馬とさせるべく、高校を卒業したばかりの舟木一夫さんに「学生服」姿でデビューすることとなった訳ですが、そのデビュー曲というのが舟木さんの代表曲『高校三年生』でした。
シングル発売1年で100万、累計売上は新聞報道によると230万枚の大ヒットとなった『高校三年生』。年末の「第5回日本レコード大賞」で、大賞候補となって最終的には「新人賞」に輝きました。
ちなみに、この年の「第14回NHK紅白歌合戦」では、同年に「新人賞」を獲得した『三沢あけみ』さんと新人賞直接対決が組まれていたりもします。新人ガチンコ対決だった訳ですねぇー
この曲を、私のヒット指標に当てはめると、
『いつでも夢を』と同様「300万」の大ヒットを記録しており、単純比較では橋幸夫さんの『潮来笠』をも上回っています。高校生など似た境遇の世代の愛唱歌となっており、現代でもご高齢の方が学ランなどを着て「NHKのど自慢」で歌う姿を年に何回もお見かけします。
その後も、橋幸夫さん、そして後述の西郷輝彦さんと共に「御三家」と称される人気を博した舟木一夫さんは、
などをヒットさせた後、1970年代に入って以降は人気が低迷したことで苦しい時期が続きますが、平成の初頭あたりから同世代のファンに支えられ、現在も活動を続けておられます。
西郷輝彦(1947/02/05~2022/02/20)
最後にご紹介するのが「西郷輝彦」さんです。先日、お亡くなりになり、大きく報道されました。そこで初めてお名前を聞いたという若い世代の方も多かったかも知れません。
また、俳優やタレントとしての活動が印象的だという世代の方も多いでしょうが、少なくとも1960年代は歌手活動をメインに、多くのヒット曲で知られました。
(1964年)『君だけを』 60万枚
(1965年)『星娘』
(1968年)『若鷲の歌』
(1969年)『海はふりむかない』
(1970年)『真夏のあらし』『情熱』
(1971年)『略奪』
などを歌ってきましたが、その中でも代表曲といえるのが、こちらでしょう。
わずか2か月で50万枚を突破する大ヒットとなった。1963年に創立した日本クラウンにとっては空前のレコード売上枚数であり、日本クラウンは全国のレコード店に感謝状を贈ったという逸話がある[1]。
日本語版ウィキペディア > 『星のフラメンコ』
という情報がウィキペディアにあるのみだったので、それを暫定的に配置しましたが、実際のヒット感はこの数値よりも遥かに大きかったと思います。(現代でも良く知られた曲ということを加味しても)
これを現代風に置き換えれば、『動画公開からわずか2か月でサブスク5,000万回再生を突破する大ヒットとなった』みたいな感じでしょうか。もし仮にこの情報だけしか無かったとしても、明らかに累計の売上がピタッと2か月で止まることは考えにくく、緩やかな下降線を仮にたどったとしてもミリオンヒットに類する売上を記録していただろうということは想像できます。
日本レコード大賞の大賞候補(作曲賞を受賞)で、「NHK紅白歌合戦」で白組トップバッターを飾った『星のフラメンコ』は、実績面でも“代表曲”と言っても良いのではないかと考えます。
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